白川郷のなかで帰雲城(かえりくもじょう)は、その歴史や秘められた伝説をはじめ、郷愁を呼び起こすその名からいって、ことのほか私たちの空想やロマンを誘う実在した城です。
鎌倉時代以降、白川郷が歴史の脚光を浴びるようになるのは、八代将軍足利義政の命を受けた内ヶ島上野介為氏(うちがしまこうずのすけためうじ)*が寛正元(1460)年に牧戸(荘川村牧戸)に城を築き、白川郷征服の拠点としてからのことです。ついで、寛正5(1464)年に為氏は北へ進出して帰雲(かえりくも)の地(保木脇)に別の城を構え、その後120年間、四代にわたる居城として数々の歴史を刻んでいきました。
しかし、天正13(1585)年11月29日(新暦1月18日)の午後11時ころ、東海・北陸・近畿の広い地域を襲った巨大地震によって庄川右岸の現帰雲山が大崩落を起こします。これによって、帰雲城をはじめ、時の城主内ヶ島兵庫頭氏理(うちがしまひょうごのかみうじよし)以下一族家臣と、城下300余件、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが埋没してしまったとされています。
帰雲は古くからの地名で「かえりく(ぐ)も」と読みますが、江戸初期には保木脇と呼ばれるようになりました。保木とは崖(ほき)または歩危(ほき)から転じた断崖を示す地形用語で、まさに地震後にこの地が一変した様を彷彿とさせる地名です。昔から西方の三方崩山側を帰雲山としていますが、近年では荘川右岸の崩壊跡を残す山も帰雲山とされています。城や城下町などがそのどこに形成されていたのか現在でも謎とされており、「幻の帰雲城」といわれる所以もそこにあります。
帰雲の名の由来は、帰雲山(1622m)、三方崩山(2058m)をはじめとした高峰に囲まれた地であるため、語源として雲が帰る地という意味合いがあったとされています。また、その景観はすばらしく、山紫水明の地であったとされることから中国の詩聖杜甫の「返照の詩」の「……帰雲は樹を擁して山村を失す」という句などが、その名の淵源にあるとする説もあります。
昭和33(1958)年、鳩谷ダムや御母衣ダム建設に伴い、家屋や田畑などを移転した地域が現在の保木脇集落です。庄川河川からの採石業を営む田口建設という建設会社のかつての社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などをこの地に建立、公園化して今に至っています。
かつて金銀を産出した白川郷だけに、一夜にして埋没してしまった帰雲城には、内ヶ島氏が蓄えた黄金が埋まっているという伝説が今なおロマンとともに伝えられています。
※「内ヶ島」氏は、内ケ島、内ヶ嶋、内島と表記されることがあります。